愛媛のゴルフ史1
No.1 昭和33年、川内町に県内に戦後初の本格的ゴルフ場オープン!
昭和30年代に入り、世の中はようやく戦後の復旧が軌道に乗り、経済活動も次第に活況を呈した。
民法テレビ局も相次いで開局。各局はゴルフのレッスン番組に力を入れるようになった。特に、昭和32年に始まったTBSの「ゴルフ学校」は午後8時半から同9時というゴールデンタイムの番組だった。さらに、同年、中村寅吉と小野光一の日本チームがカナダカップで団体優勝、中村寅吉が個人優勝をするという快挙。このことも手伝って、日本にも第一次のゴルフブームが起こった。一部の特権階級の”お遊び”と見られていたゴルフに大衆化の波が訪れる。県内でも昭和32年8月6日、温泉郡川内町松瀬川で、松山ゴルフ倶楽部川内コース(9ホール、現在の同クラブのアウトコース)の起工式が、高松宮様をお迎えして挙行された。県内で始めての本格的なゴルフコースの建設に向け、槌音も高かった。同33年11月、待望のゴルフ場が温泉郡川内町内に開場した。名称は松山ゴルフ倶楽部で、現在のアウトの9ホールのみだった。最初のメンバーは300人足らず。当時は松山ゴルフ倶楽部川内コースと言っていた。が、今のような恵まれた施設もなく、ゴルファーは弁当持参で、悪路の”酷道”と言われた国道11号線を往復した。開場の頃はゴルフ人口も少なく、入場者は1日平均、約30人。メンバーは新居浜の住友関係者が目立っていた。というのも、新居浜では松山よりもコンパクトではあるが、6ホールのコース(山田ゴルフ練習場)が復活。また、戦前からベテランも健在だった。オープン当時について、関宏成氏は「松山ゴルフ倶楽部が誕生するまでには、いろいろな苦労があった。桜の咲く季節になると、現在の9番のグリーン付近で近所の人がゴザをしいてお花見をする。公園として届けているのもだから、どけともいえない。遠慮、遠慮しながらプレーした。」このことからも、ゴルフ場を造るに際しての「苦肉の策」がうかがえる。コースは平田陽一郎さんが上田治氏に頼み込んで設計してもらった。上田氏は旧制松山高校出身で、ご恩のあった松山のことだからといって、一切の謝礼を受け取らなかった。今も、上田氏の設計の面影がコースの随所に残っている。会場当初は9ホール。ティーグラウンドには2種類マークがあった。2度回って1ラウンドとすると、マークを変えた。当初は「食堂もなく万翠荘からおひつにご飯を入れてきて、カレーライスを出していた。クラブハウスは現在のアウトの茶屋辺りにあって、1階がロッカールームと事務室、2階が食堂。食堂も15人から20人も入ったらいっぱいだった」と関氏は当時を回顧する。