あゆみ

松山ゴルフ倶楽部のあゆみ

1958年 11月 9ホールズでオープン
コース設計者 上田治氏
1964年 11月

9ホール増設し18ホールになる

倶楽部ハウス新築竣工
倶楽部ハウス設計者 松村正恒氏

1984年 11月 RNB杯アマゴルフ選手権大会開催
1990年 乗用カート導入
1998年 11月

開場40周年

2004年 オーバーシートによるベントグリーン工事開始
2006年

増資・会員募集

払込2億7000万・180名の新会員登録

(新資本金3億5347万円)

2008年 02月 倶楽部ハウス新装工事完了
2008年 11月 開場50周年を迎える

松山ゴルフ倶楽部歴代理事長

初代理事長 宮脇 先
第二代理事長 山中貞義
第三代理事長 渡部七朗
初代理事長 宮脇 先 第二代理事長 山中貞義 第三代理事長 渡部七朗
第四代理事長 桑原慶人
第五代理事長 桝田三郎
第六代理事長 森田浩治
第四代理事長 桑原慶人
第五代理事長 桝田三郎
第六代理事長 森田浩治
第七代(現在)理事長 大塚 岩男
第七代(現在)理事長 大塚 岩男

愛媛のゴルフ史1

No.1 昭和33年、川内町に県内に戦後初の本格的ゴルフ場オープン!

昭和30年代に入り、世の中はようやく戦後の復旧が軌道に乗り、経済活動も次第に活況を呈した。
民法テレビ局も相次いで開局。各局はゴルフのレッスン番組に力を入れるようになった。特に、昭和32年に始まったTBSの「ゴルフ学校」は午後8時半から同9時というゴールデンタイムの番組だった。さらに、同年、中村寅吉と小野光一の日本チームがカナダカップで団体優勝、中村寅吉が個人優勝をするという快挙。このことも手伝って、日本にも第一次のゴルフブームが起こった。一部の特権階級の”お遊び”と見られていたゴルフに大衆化の波が訪れる。県内でも昭和32年8月6日、温泉郡川内町松瀬川で、松山ゴルフ倶楽部川内コース(9ホール、現在の同クラブのアウトコース)の起工式が、高松宮様をお迎えして挙行された。県内で始めての本格的なゴルフコースの建設に向け、槌音も高かった。同33年11月、待望のゴルフ場が温泉郡川内町内に開場した。名称は松山ゴルフ倶楽部で、現在のアウトの9ホールのみだった。最初のメンバーは300人足らず。当時は松山ゴルフ倶楽部川内コースと言っていた。が、今のような恵まれた施設もなく、ゴルファーは弁当持参で、悪路の”酷道”と言われた国道11号線を往復した。開場の頃はゴルフ人口も少なく、入場者は1日平均、約30人。メンバーは新居浜の住友関係者が目立っていた。というのも、新居浜では松山よりもコンパクトではあるが、6ホールのコース(山田ゴルフ練習場)が復活。また、戦前からベテランも健在だった。オープン当時について、関宏成氏は「松山ゴルフ倶楽部が誕生するまでには、いろいろな苦労があった。桜の咲く季節になると、現在の9番のグリーン付近で近所の人がゴザをしいてお花見をする。公園として届けているのもだから、どけともいえない。遠慮、遠慮しながらプレーした。」このことからも、ゴルフ場を造るに際しての「苦肉の策」がうかがえる。コースは平田陽一郎さんが上田治氏に頼み込んで設計してもらった。上田氏は旧制松山高校出身で、ご恩のあった松山のことだからといって、一切の謝礼を受け取らなかった。今も、上田氏の設計の面影がコースの随所に残っている。会場当初は9ホール。ティーグラウンドには2種類マークがあった。2度回って1ラウンドとすると、マークを変えた。当初は「食堂もなく万翠荘からおひつにご飯を入れてきて、カレーライスを出していた。クラブハウスは現在のアウトの茶屋辺りにあって、1階がロッカールームと事務室、2階が食堂。食堂も15人から20人も入ったらいっぱいだった」と関氏は当時を回顧する。

愛媛のゴルフ史2

No.2 適地探しに弁当持参で東奔西走

関氏の回顧談からもわかるように、温泉郡川内町松瀬川にゴルフ場を建設すると決まるまでには、紆余曲折があった。武智、栗田八十八氏など戦前からの松山ゴルファーが中心になって候補地を探した。最初に目が向けられたのは、戦前に一時ゴルフ場があった温泉郡小野村播磨塚。次に、現在の松山国際ゴルフ倶楽部の東方にあたる温泉郡重信町上林の麓も適地とされた。候補地は次々に上がった。重信町見奈良、現在の道後ゴルフ倶楽部がある松山市下伊台町、北条市立岩地区、松山市太山寺地区、同市権化地区、皿ヶ峰中腹地区と西に東に、ゴルフ愛好家たちは弁当持参で調査の労をとった。特に、太山寺地区の調査では飛行機をチャーターしたほどの熱心さだった。しかし、いずれもコースとして多少の難点があった。その後、川内町松瀬川に開墾地があるから1度みてくれてという声が寄せられた。同時に設計したのは、設計者の上田治氏の一言だった。

愛媛のゴルフ史3

No.3 アリソンの弟子・上田治氏設計、建設に献身的協力

ここで、日本のゴルフ場の設計において大きな足跡を残した上田氏について少し触れたい。同氏は旧制の松山高等学校の出身で、京大農学部に学ぶ。その後、長らく英国にも滞在、英国のゴルフ場設計家のアリソン氏の事務所でゴルフ設計に習熟。また、同氏のゴルフは本場仕込みの本物だった。さらに、上田市は廣野ゴルフを設計したアリソン氏の指示に従い、廣野のグリーンを造るとともに、長い間、廣野のグリーンキーパーを努めた。上田氏のコース設計の特徴はなぐり打ちするような男性的なデザイン。随所にアリソン式の深いバンカーを設け、プレーヤーの行く手を阻んだ。 設計、建設にあたり、同氏は「ゆかりの土地に造るのだから名誉にかけてもやる」という意気込みが伺えた。同氏は口癖のように「松山は罪滅ぼしだ」と語るなど、松山とのゆかりで献身的に協力した。松山ゴルフ倶楽部の名物のひとつ「アリソン・バンカー」にはコース設計者の上田氏をはさむ形で、アリソン氏との大きなかかわりがあった。日本の風土にあったコース設計を促したのは、英国人のコース設計家のチャールズ・アリソンで、日本のコースを世界的レベルにまで引き上げるに貢献した。彼が設計したコースは現在、廣野しか存在しない。大方のゴルファーには、アリソンという名は深いバンカーで緑がオーバーハングする「アリソン・バンカー」でしか知られていない。川奈でアリソンに遭遇した井上誠一、廣野の現場で助手を努めた上田治はその後、日本を代表するコース設計家となった。二人の元をたどればアリソン氏に突き当たる。

愛媛のゴルフ史4

No.4 農地法クリアに秘策

ゴルフ場建設にあたっては、農地をつぶしてはいけないという原則がある。農地法が厳しかったので無理もなかった。そこで、秘策を練った。 農地を緑地帯もしくは公園にするとなれば、農地法もクリアできるとし、ゴルフ場でなく公園の図面を書き、公園の許可をとった公園として造園し、ゴルフ場として利用。公園のなかにゴルフ場があるという形を取った。現在、アウトコースの一部分は川内町黒穂公園と称する公園敷地内に設置されているが、この土地をプレーヤーが利用していることを見ても、農地転用がいかに困難なものであったかを物語っている。しかし、岡山の農政局にばれてしまった。「農地をゴルフ場にするなんて-。農地法違反だ」と怒られる。もうゴルフ場は出来上がっているのに、元に戻すわけにはいかなかった。当時のことを、井部栄治氏は「行政管理庁に呼ばれてさんざん怒られた。ゴルフがしたいばっかしに頭を下げ通しだった」と振り返っている。その後、どのようにして”解決”したかは定かではない。農地法をクリアできた超法規的措置があったのだろうか。ともかく、松山ゴルフ倶楽部川内コースは開場式を行った。昭和33年11月2日のことだった。

愛媛のゴルフ史5

No.5 ゴルフ場建設 工場誘致と密接な関わり

松山ゴルフ倶楽部川内コースの開場式に参加したゴルフ愛好家たちは感激した。それまでの県内ゴルファーは、地元にコースがないものだから、九州の別府、広島の鈴ヶ峯、岡山の帯江、坂出城山の高松カントリークラブ、果ては阪神方面までも、重いバッグを担いで遠出した。その苦労から開放されると共にホームコースが出来、喜びもひとしおだった。松山ゴルフ倶楽部川内コースの誕生には、松山市の工場誘致とかかわりがあった。昭和27年には松山臨海工業地区に誘致企業第1号として、大阪曹達が松山工場を建設、操業を開始した。さらに、同30年、帝人松山工場が新しく操業を始めた。また、同27年から操業を開始した丸善石油松山製油所は30年代に総合石油化学工場の体制を確立。相次いで、企業の進出や生産施設の拡大が行われた。当時の副知事が大阪の各企業へ工場誘致をお願いに行った。そのとき、相手企業から「松山にはゴルフ場があるか」と訪ねられ、返答に窮した。ゴルフ場が工場誘致の大きな要素だということを改めて思い知らされたわけだ。県としても工場誘致上、ゴルフ建設と積極的に取り組むことになる。また、当時の黒田松山市長も、帝人の田宮副社長に「松山にまだゴルフ場はないのか」といわれて、同市長も心配。ゴルフは観光の面でも役立つとして、自分でも適地を見に行くほど熱の入れようだった。松山ゴルフ倶楽部川内コースの用地を最終決定した昭和31年12月11日の懇談会で、だれかれとなく「松山のゴルフ場がなかったら、役所でも会社でも、人の来てはないぞな。工場誘致じゃ言うてもゴルフ場がないところでは、お会いしても気乗りして考えてくれん」と」発言。この言葉に、工場誘致とゴルフ場建設の深い因果関係を垣間見ることができる。

愛媛のゴルフ史6

No.6 東南予にも本格コースお目見え

県内初の本格的なゴルフコースである松山ゴルフ倶楽部が昭和33年11月、9ホールだったが、温泉郡川内町にオープンした。以来、東予で新居浜カントリークラブが昭和39年に、また南予で大洲ゴルフ倶楽部が同41年にそれぞれ特色ある本格コースとして開場。ゴルフ大衆化の幕開けを告げた。新居浜カントリークラブがオープンした昭和39年は、東京オリンピックの開催年である、ちょうど国道11号線の全面改修開通の年だった。その頃は、わが国が戦後の困難な時代から経済大国への確実な一歩を踏み出した、大きな節目の時期に当たる。一方、大洲ゴルフ倶楽部のオープンした同41年は、大洲を舞台にしたNHKの朝の連続ドラマ「おはなはん」が好評のうちに放送され、大洲市が脚光を浴びていた。この年はまさに、大洲の観光元年とも言えた。ゴルフ場オープンの背景にも、それぞれの時代と地域の事情が色濃く映し出されていたわけである。