愛媛のゴルフ史5
No.5 ゴルフ場建設 工場誘致と密接な関わり
松山ゴルフ倶楽部川内コースの開場式に参加したゴルフ愛好家たちは感激した。それまでの県内ゴルファーは、地元にコースがないものだから、九州の別府、広島の鈴ヶ峯、岡山の帯江、坂出城山の高松カントリークラブ、果ては阪神方面までも、重いバッグを担いで遠出した。その苦労から開放されると共にホームコースが出来、喜びもひとしおだった。松山ゴルフ倶楽部川内コースの誕生には、松山市の工場誘致とかかわりがあった。昭和27年には松山臨海工業地区に誘致企業第1号として、大阪曹達が松山工場を建設、操業を開始した。さらに、同30年、帝人松山工場が新しく操業を始めた。また、同27年から操業を開始した丸善石油松山製油所は30年代に総合石油化学工場の体制を確立。相次いで、企業の進出や生産施設の拡大が行われた。当時の副知事が大阪の各企業へ工場誘致をお願いに行った。そのとき、相手企業から「松山にはゴルフ場があるか」と訪ねられ、返答に窮した。ゴルフ場が工場誘致の大きな要素だということを改めて思い知らされたわけだ。県としても工場誘致上、ゴルフ建設と積極的に取り組むことになる。また、当時の黒田松山市長も、帝人の田宮副社長に「松山にまだゴルフ場はないのか」といわれて、同市長も心配。ゴルフは観光の面でも役立つとして、自分でも適地を見に行くほど熱の入れようだった。松山ゴルフ倶楽部川内コースの用地を最終決定した昭和31年12月11日の懇談会で、だれかれとなく「松山のゴルフ場がなかったら、役所でも会社でも、人の来てはないぞな。工場誘致じゃ言うてもゴルフ場がないところでは、お会いしても気乗りして考えてくれん」と」発言。この言葉に、工場誘致とゴルフ場建設の深い因果関係を垣間見ることができる。